「燃えるがごとく、癌細胞を焼きつくす」
がんとの総力戦を貫いて「闘うな」に反論
建築家 長尾 宜子さん
プロフィール
長尾宜子(ながお よりこ) 1946年福岡県生まれ。武蔵野美術大学建築学科卒業。男社会の建築界にあって、女性建築家の草分けの1人。建物だけでなく街作りに視点を置いた設計とデザイン力で活躍した。代表的な作品に、ラフォーレ原宿、アークヒルズ、東武博物館、ホテル日航東京、ユーカリが丘の街づくりなど。1998年7月に死去、享年52歳。
3年間に7度の大手術
長尾さんが大腸がんを告知されたのは93年6月。ホテル日航東京の起工式を1ヵ月後に控えた頃だった。1年以上前から腹部が痛み、貧血がひどかった。お父さんをがんで亡くしていたから、長尾さん自身もがんではとの予感があった。しかし、東京臨海副都心のコンペティションで、ホテル日航東京のプランが採用されるかどうかの重要な時期だった。副都心で最も目立つ場所に、自分が設計する建物を何としても建てたい、という建築家としての野心と、お父さんの命を奪ったがんへの恐怖心から逃げたい、という思い、病院にはなかなか足が向かなかった。
だが、痛みが我慢の限界に来た。かかりつけの医院へ駆け込むと、直ぐに済生会中央病院を紹介された。検査した医師は「腸閉塞を起こしているから切った方がいい」と所見を述べたので、長尾さんは「がんですか」と訊ねたが「細胞を見てみないと断定的なことは言えない」との答えだった。長尾さんは、担当医から紹介元のかかりつけ医への回答書を自分で届けるといって預り、病院の待合室で封筒を開けて回答書を読んでしまった。すると「CANCER」(がん)という英単語が目に飛び込んできた。
翌日、再び済生会中央病院の担当医を訪ね、回答書を見てしまい、自分ががんであることを承知しているので、包み隠さず説明してくれるように頼んだ。その結果、長尾さんのがんは、横行結腸にできた進行がんで、すでに漿膜(しょうまく)下層まで侵しており、腸の内腔が狭くなっていた。早期の手術が必要で、横行結腸を周囲のリンパ節とともに切除し、上行結腸と下行結腸をつなぐ手術が行われた。
その後、転移が肝臓から胆嚢、広範なリンパ節、脾静脈、腎臓、肺へと広がっていった。何度も危機に直面したにもかかわらず、長尾さんは諦めることなく、96年までの3年間で実に7度の開腹手術を受けた。手術時間は延べ50時間にも及ぶ。そして生き抜いた。
「がんと闘うな」に真っ向から反論
長尾さんが生前に執筆した闘病記「燃えるがごとく、癌細胞を焼きつくす 最高のインフォームド・コンセントを求めて」(1997年7月発行)の「はじめに」で、がんとの闘いを次のように綴っている。
「私にとって闘病は、情報戦でもありました。それも知力、経済力、人脈、つまり能力のすべてを使った総力戦です。欲しいものは惜しみなく努力し、すべてを手に入れる、これまでの私の生き方そのものの凝縮でした。
今、私は命が欲しい。そのために悔いを残さぬよう、どのような結末になろうとも、自分で満足できる戦いを、これからもつづけていこうと思っています。
がんと闘わないことが脚光を浴びていますが、私は可能性のある限り、けっして諦めずに闘いたい。そして、最悪のことを考えながら、最善を尽くして明るく生きていきたい。」
この闘病記を執筆した頃、近藤誠医師の「患者よ、がんと闘うな」(1996年3月発行)が出版され「手術や抗がん剤治療は、患者の寿命を縮めるだけ。がんと闘うのは無意味。無治療(放置)が最高の延命策」という内容の「近藤理論」が医療界、患者・家族に多大な影響、混乱をもたらした最中だった。
長尾さんの闘病記は、近藤理論のアンチテーゼとして出版した。この闘病記の巻末には、定期的な検査のデータや度重なる治療の内容を長尾さん自らパソコンで記録した5年間の「病歴一覧表」が掲載されている。そこには、がんとの攻防の状況や病状の変化をきめ細かく、かつ正確に把握してがんに絶対負けたくない、という強い意思が込められている。
医師と一体の関係を築く
がんと真剣に闘うと決意した長尾さんは、猛勉強した。医学の入門書に始まり、がん専門医が読むような専門書まで、本棚一棹分の医学書を読み漁った。
「病気と闘うのは自分だ。闘病を医者任せにしない」というのが長尾さんの主義。建築家という仕事を続けながら闘病する自分にとって、最もふさわしい治療は何か。それを判断するためには、情報を集め、コネを使い、ありとあらゆる努力を惜しみなくした。
そして、医師と対等に議論できる知識を身につけるため、必死で勉強し医師たちとの会議には必ず出席し発言する。自ら治療方針を提案することもあった。長尾さんは、医師と患者の新しい関係を模索し、医師が治し患者が治してもらう一方的な関係ではなく、共に闘うという、医師との一体の関係を築いた。
3年間で7回の大手術を受けながら、第一線の建築家として活躍する長尾宜子さんのことを、当時のマスコミは「奇跡の人」と呼び、長尾さんの闘病が何度もテレビで取り上げられた。しかし、長尾さんは「奇跡」と言われることを嫌った。「自分が生きているのは、奇跡ではない。生への強い意思と、あらゆる努力がもたらした必然だ」と反発した。
その後、長尾さんはがんの治療が限界を超えてから緩和ケアを受け、1998年7月に永遠の旅人となった。7回の大手術を受けながら仕事を続け、残された短い時間を精一杯生き抜き、自分の最後の作品のために使い切り、長尾宜子という建築家が存在したという証を残したかった、という思いを達成した。
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