はじめに
赤ひげ書房は、困難な病気と向き合った過程を綴った手記「闘病記」を収集し、インターネットを通じて販売してます。赤ひげ書房のホームページをご覧いただくと、様々な闘病記が数多く出版されていることに驚かれるでしょう。赤ひげ書房のホームページは、どのような闘病記が出版されているのかを調べるための情報源として、一般の方々をはじめ、医療関係の皆さんにもご利用いただいてます。
様々な闘病記の中でも、がんの闘病記が最も多く出版されてます。がんという病気の特徴が良く表われていると思います。
日本人の死因の三大疾患は、ご承知のように「がん・心臓病・脳血管疾患」です。心臓病、脳血管疾患については、治療法がかなり確立されてますが、がんの場合は、いまだに確実な治療法が確立されてないため、3人に1人が亡くなる、という厳しい現実があります。がんに罹ると、生死に関り、しかも闘病は長期戦となります。仕事や家庭、そして経済的な問題などが生じ、人生設計を書き換えなければなりません。それまでの自分の生き方や価値観の転換を迫られ、自分とも闘わなければなりません。
がん闘病記は、患者本人やその家族、関係者によって書かれた具体的な症例報告です。不安や苦痛のどん底、迷路の中で、命を見つめ、どのようにくじけたり、どのように支えられて立ち直ることができたのか、どのように生きようとしたのか、人間の弱さと強さが詳細かつ赤裸々に綴られています。闘病記から、がんという、しぶとい病と賢く向き合いながら、生き抜くための知恵を学ぶことができます。
闘病記の主人公の職業・経歴が異なると、価値観(生き方・生き様)が異なりますから、がんとの向き合い方(病み方・生き抜き方)も異なります。いろいろな病み方・生き抜き方を知ると、困った時、迷った時の道しるべになります。
そこで、様々な職業・経歴のがん患者、家族、関係者が綴った闘病記をもとに、がんという病の賢い病み方・生き抜き方を探りたいと思います。
「全身がん政治家」
実は私、4つのがんをやってました・・・・。
元衆議院議員 与謝野 馨さん
プロフィール
1938年東京生まれ。中曽根康弘・元首相の秘書を経て、1976年に衆議院議員初当選。文部大臣、通産大臣、自民党政調会長などを歴任。第一次安倍晋三内閣で官房長官、麻生太郎内閣で財務・金融・経済財政の3閣僚を兼務。民主党菅直人政権では経済財政担当相として入閣。政策通で、筋金入りの財政再建論者として知られている。2012年12月の衆議院議員選挙への立候補を断念し、政界を引退。歌人の与謝野鉄幹・晶子さんは、祖父母にあたる。
30年以上もがんと共に政治活動
与謝野さんは、初当選の翌年(1977年)に悪性リンパ腫を発症、それ以後30年以上にわたって直腸がん、前立腺がん、下咽頭がんと次から次へと異時性多重がん(がんを治療した後に別のがんになること)を発症、さらに3度の再発を体験してます。
与謝野さんは、政界引退を決意する直前の2012年6月に文藝春秋から「全身がん政治家」を出版した。政治家が、自らの病を公表するのは異例。政界では「風邪はがん、入院は危篤」という隠語(仲間内だけで通じる言い回し)を使い、肉体的な生命よりも政治的生命を危惧する風習がある。与謝野さんも、がんの治療が公になると政治的生命を失いかねないと危惧し、家族や秘書にさえもがんの治療を隠し続け、しかも、病院では偽名で通し、健康保険を使わなかった、という徹底振り。
その与謝野さんが出版に踏み切ったのは、親しくしている医師から「政治活動を続けながら、がんと共に生きてきた体験を公にすれば、世のため人のために役立ちます」という熱心な薦めだった。
与謝野さんは、筆無精を自認するため出版社が手配したライターが同行し、治療してくれた医師9名がインタビューに応じてくれ、4つのがんのそれぞれの治療についての患者と医師のやりとり、どのような治療が行われ、副作用や後遺症にどのように対応したのかなど、詳細かつ専門的な話を分かり易く収録し、世のため人のためになる著書に仕上がった。
出版直後に、与謝野さんは、下咽頭がん手術の後遺症で食道が狭まり、食べ物が肺に入ってしまい、誤嚥(ごえん)性肺炎を起こして緊急入院。肺炎を繰り返さないようにするには、喉頭を摘出するしかなく、声を失い、政界からの引退を決意した。
その後、与謝野さんは、日本で、あまり普及していない「気管食道シャント法」と呼ぶ手術を受け、声を取り戻した。テレビの対談番組に出演し、元気な姿を見せるまでに回復した。
与謝野さんの賢い病み方・生き抜き方の秘訣とは・・・。
悪性リンパ腫の治療に16年
与謝野さんは、国会議員1年生の39歳の時(1977年)に、入浴中に右脚付け根にゴリゴリとした感触 のしこりがあることに気付き、定期的に健診を受けている、かかりつけの医師に診てもらったところ、悪性リンパ腫の1つである濾胞性(ろほうせい)リンパ腫が判明した。
悪性リンパ腫は、血液がんの一種。血液がんのほとんどが白血病、骨髄腫、悪性リンパ腫で占められている。悪性リンパ腫は、白血球の一種であるリンパ球ががん化して増える病気。自覚的には、与謝野さんがそうであったように首、脇の下、足の付け根などのリンパ節が腫れて気付くことが多い。濾胞性リンパ腫は、抗がん剤治療での完全治癒は困難な疾患とされており、しかも、進行が緩やかなこともあって、多くの場合は「病気と上手に付き合っていく」ことが治療の目標になる。
与謝野さんの場合は、抗がん剤などを使って、体の中に1つもがん細胞を残さない「完全寛解」(通常の検査では悪い腫瘍細胞が見つけられないような状態のこと)を目指す長く、苦しい治療が始まった。
抗がん剤の副作用で頭髪が抜け、カツラを着用したり、握力が低下し、ゴルフができなくなったり、不眠、肥満に悩まされたが、闘病をひたすら隠し、告知から16年後の1993年に濾胞性リンパ腫の治療に終止符を打つことができた。その後、文部大臣として初入閣、内閣官房副長官、通産大臣に就任し順風満帆。しかし、再び試練が・・・・。
落選、そして次々とがん
2000年6月の総選挙で与謝野さんは、まさかの落選。時間ができ、気晴らしのため、商社のロンドン駐在員をしていた息子さん一家を訪ねたが、ひどい便秘に悩まされた。帰国後、東京女子医大で大腸内視鏡検査を受けたところ、肛門から約10cm上の直腸にがんが見つかった。「まだ手術で取れる段階にある」との説明を受け、手術の予定を組んでもらった。
数日後に、悪性リンパ腫を診てくれた医師に電話し、直腸に新たながんが見つかり、手術することを報告。すると「悪性リンパ腫の治療で、アドリアマイシン(「ドキソルビシン」とも呼ばれている)を含む多剤併用療法を限界量まで受け、その上、放射線治療で鼠径部(そけいぶ)に、それなりの放射線が当たっているので、与謝野さんの治療記録がある病院(国立がん研究センター)で手術した方が安全です」とのセカンドオピニオン(現在の自分の病状や治療方針について、他の医師の意見を求めること)を得た。
手術の予定が既に組まれていることを話すと、医師から「いまの世の中には、ドクターショッピングという言葉もあって、患者さんが医者を選ぶことが普通にできるようなっている」と、病院を変更しても問題がないとの助言を得た。最近は、ドクターショッピングというと、医師への不信感から、より良い医療を求めて医療機関を渡り歩く、という負のイメージで使われるが、この当時、セカンドオピニオンは一般化してなかったので、与謝野さんが病院の変更を決断し易いように、医師がドクターショッピングという言葉を使い、背中を押してくれた。
大学病院での手術をキャンセルし、国立がん研究センターで手術を受けた。がんの進行度は、ステージⅡで、幸いリンパ節などに転移はなく、がんの部分を含む、計40cmほど切除したが、肛門は切らずにすみ、手術は無事終了した。
ところが、翌年(2001年)11月に尿に小さな血の塊があるのを見つけ、直腸がん手術で執刀してくれた医師に相談したところ、泌尿器科の医師を直ぐに紹介してくれた。検査で前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSA(前立腺特異抗原)の値が高いことがわかり、生検(せいけん=病変の組織(細胞)を採取して顕微鏡で調べる検査)で前立腺がんが判明した。幸い、骨転移はしていなかった。
根治を目指すには、手術で前立腺を摘出するのが望ましいが、与謝野さんの場合は、濾胞性リンパ腫の治療で、下腹部に放射線が当たっていることや、前年に前立腺と近接している直腸がんを手術しており、前立腺を手術すると癒着する可能性があるため、手術で取るのはリスクが高くなる。医師は、与謝野さんの希望や過去の治療データを勘案し、ホルモン療法を半年ほど行って腫瘍を小さくしてから放射線治療を行い、根治させるという長期戦の治療プログラムを提示、与謝野さんもそれに従った。
ホルモン療法は、専門的には「内分泌療法」という。男性ホルモンを抑える薬や女性ホルモン剤など、性ホルモンを調節する薬が使われるので、一般的にはホルモン療法と呼ばれることが多い。ホルモン剤の効果が持続している半年前後のタイミングで、根治を目指して手術か放射線治療が行われる。
放射線治療は、与謝野さんの過去の治療の影響を考慮し、三次元照射(体の外側から前立腺に絞って三次元的に放射線を当てる治療)が選択された。その後、与謝野さんは1ヶ月半に33回の放射線治療を受け、2002年秋に前立腺がんの治療を無事終了した。放射線の三次元照射は、前立腺の周りにも放射線がある程度当たってしまうため、一時的に頻尿と肛門の痛みなどの副作用が与謝野さんの場合もあったが、治療後に改善したという。
議員復帰するが4つ目のがん
前立腺がんの治療を終了した翌2003年の衆院選で、与謝野さんは議席を回復した。財政問題のエキスパートで政策通の与謝野さんは、小泉内閣で経済財政・金融相に就任、2006年9月に発足した安倍内閣では、自民党の重要ポストである税制調査会会長に就任。その直後に異変が・・・。
奥歯の痛みで、かかりつけの歯医者に行き、抗生物質や抗菌剤を処方してもらったが、痛みが一向に治まらず、喉の奥になんとなく違和感があった。歯医者にクリニックを紹介され、そこの医師から「直ぐにがんセンター(現在のがん研究センター)に行かれた方がいい」といわれ、頭頸部腫瘍科へ。直ぐに生検が行われ、下咽頭の粘膜の表面に広がるタイプの扁平上皮がんであることが分かった。
徹底的に治療に専念する必要がある、と判断した与謝野さんは、税制調査会の会長辞任を手配し、国立がん研究センターに入院、同時に「万一のために」と、家族あてに遺書を残し、手術に臨んだ。政治家という職業上、できれば声を残したい・・・。与謝野さんの希望もあり、主治医は声に影響が出ない治療法を選択した。声帯を残し、首のリンパ節の切除から始まって、喉のがんの部分を切除、がんを取って穴が開いた部分に、手首の皮膚を移植して喉を形作る再建手術、さらに脚から手首への皮膚移植という4段構えの手術を受けた。
がんは上手く取れたが、嚥下障害(食べ物を飲み込めない障害)で誤嚥性肺炎になり、食事が取れない状態が2ヶ月近く続いた。内視鏡と特殊な装置を使って喉を拡げる「プジー」という処置を1日20分、これを数日おきに繰り返し、ようやく食事が摂れるようになった。
後遺症の治療に苦しみながら選挙戦
2009年8月の衆議院議員選挙で民主党が圧勝、自民党政権が崩壊。与謝野さんは選挙区で落選したが、比例区で復活当選した。選挙戦直前に、前立腺がん治療の後遺症による血尿の症状が悪化、膀胱内を電気メスで焼く手術を受け、選挙期間中は麻酔をぶら下げて、血尿と痛みと戦いながらの文字通り血まみれの選挙戦だった。
選挙後、与謝野さんは、自民党を離党、新党「たちあがれ日本」を旗揚げし、共同代表となる。しかし、民主党政権から連立の打診を受け、賛成する与謝野さんは離党し、菅直人内閣の経済財政政策担当相として入閣、持論の社会保障と税の一体改革(消費税引上げ)による財政再建に取り組んだ。
野田内閣発足に伴い閣僚を退任した後に体調を崩し、「全身がん政治家」を出版した2012年6月から約2ヶ月間入院。その間に咽頭がんの修復手術を受けたが、その影響で声を失い、筆談での会話を余儀なくされる。声のリハビリを始めていたが、早期の回復は困難なため、同年12月の衆議院議員選挙への立候補を断念し、政界引退を表明した。
声を取り戻す
その後、与謝野さんは食道発声や電気式人工喉頭を試したが、がん研究会有明病院で気管食道シャント法と呼ばれる手術を受け、声を取り戻した。
喉頭を摘出して声帯を失った場合、食道発声法をマスターするか、電気式人工喉頭を利用するのが一般的。しかし、ゲップの要領で声を出す食道発声法は、習得するのが難しく、日常生活を送るのに満足な発声ができる人は約1割だという。また、電気式人工喉頭は、あごの下にマイクのような音源を当てて発声する仕組みで、音は簡単に出るが、装置が目立つことや、ロボットのような機械的な音質を嫌う人が多い。
気管食道シャント法は、気管と食道の間の壁に穴を開けて「ヴォイスプロテーゼ」と呼ばれるシリコン製の短いチューブで気管と食道をつないで連絡路(シャント)を作り、この連絡路を通して息を食道内に引き込んで食道の粘膜を震わせて声を出すという仕組み。手術後9割の人が少しの訓練で、より自然な会話ができるようになるという。声を取り戻すのに非常に有効な方法だが、日本では、気管食道シャント法に取り組む病院が少ない。欧米では多くの人がシャント法で声を取り戻してるが、日本での普及は5%程度の人に止まっているという。
ヴォイスプロテーゼを装着する手術は保険が適用され、入院費も含め3割負担で13万円前後。高額療養費制度でさらに安く抑えられる。ヴォイスプロテーゼは3ヶ月に1回程度の交換が必要で、健康保険が適用されるが、本人負担は1万2千円ほど掛かり、日常的に清掃用に使うメンテナンスの器具や付属品は、健康保険でカバーされないため毎月2万円前後の負担が必要となる。
喉頭がんや咽頭がんなどの手術で喉頭を摘出し、声を失った人たちの患者会「悠声会」の代表者らは2013年12月に与謝野さんの事務所を訪ね、声を取り戻した与謝野さんの感想を聞くとともに、気管食道シャント法普及への支援を要請した。この時の模様は、マスコミが報道したが、悠声会のホームページ(
http://www.yousay-kai.org/)でも紹介してる。
賢い病み方・生き抜き方とは
与謝野さんが最初にがんを発症した30数年前と現在とでは、がんという病気の捉え方、検査の精度や治療方法も大きく様変わりした。この変化を実体験した「がんサバイバー」の与謝野さんは、がんという病との向き合い方、つまり独自の賢い病み方・生き抜き方を習得した。
がんは「不治の病」といわれたのは、今や遠い昔の話。現在でも発見が遅れると厳しい病気であることに変わりはないが、検査技術や治療法が格段に進歩したことによって早い段階でがんが見つかれば、完全に治って元気になり、病気する前と変わらない暮らしに戻れるケースが非常に多くなった。
与謝野さんは「些細なことでも自らの体調の変化に気づいたら、すぐに検査を受けたので、4つのがんと3度の再発を早期に見つけ、治療の機会を逃さなかった」と日常的に体の変調を見逃さない、いわば自己診断力を経験的に身に付けた。
その上で「信頼のおける医師に巡り会い、適切なアドバイスのもとで治療が受けられ、今日まで生きてこられた」と信頼のおける医師との出会の大切さを力説する。
「いい先生」との出会いは、偶然ではない。与謝野さんは、国会議員になったからには、健康管理に注意し、健康診断を定期的に受けたいと思い、かかりつけ医をつくった。小学校の同級生だった友人の兄が、国会周辺の近くで開業医だったので紹介してもらった。その医師をご縁に、4つのがんの診断・治療、再発・副作用・後遺症の治療で人柄、腕前とも確かな数多くの医師に次々とお世話になった。別のがんが見つかると、担当医が知り合いの腕の立つ専門医を紹介してくれ、しかも過去の治療データに基づいて最善の治療方針を見立てて治療してくれるという、好循環型の治療を受けることができた。
治療してくれた医師に全幅の信頼を寄せる。自分のことのみならず、家族や知人の病のことも気さくに相談できる医師が存在することは、何よりも心強い。与謝野さんの闘病記には、実名で9名の医師が登場し、その時、どのような症状で、過去の治療の影響を考慮すると、どのような治療が最善だったのか、などを詳細に解説している。
与謝野さんは、次から次とがんが見つかり、がんと共に生きることが日常のことになったが「がんだからといって、それまでの生活スタイルを変えるようなことは何一つしなかった。今振り返ってみると、むしろそれが良かった」という。
「がんに効く、といわれるものだけを食べるといった、極端な食生活に切り替えてしまう人が多いと聞きますが、私は食事を大きく変えるという発想は無かった。闘病のために、別の仕事に就いたり、閑職にしてもらうといった選択をせず、本来の夢であった政治家を続けてきたことも心の張りを失うことなく日々生きてこられたという点で、非常にプラスだったのではないかと思う。仕事にやり甲斐を感じながら、いつもと変わらない暮しを続けることが、患者であることに一所懸命にならずに済んだ秘訣ではないかと気が付いた」と賢い病み方、生き抜き方のコツを習得した。
さらに、30数年という、がんと向き合う長い生活の中で、自分自身を冷静に見つめることができる平常心をいつの間にか身に付けたという。「長年がんと付き合う中で、次第に三重人格のようになっていき、病気と闘っている私、仕事(政治家)をしている私、それを冷ややかに見ている私と、常に『3人の自分』がいるようになった。冷静に自分自身を見つめることができる人は、結果的に良い経過をたどると医師からいわれた」という。成すべきことを成し遂げるまでは死ねない、という使命感がネガティブな感情を払拭し、賢い病み方、生き抜き方を貫く秘訣につながっているのかも知れない。
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