がん再発、頼みの陽子線治療ができない!
開胸手術、抗がん剤との激しい闘いの末、がんを克服
小説家・作詞家 なかにし礼さん
プロフィール
1938年生まれ、中国・牡丹江市出身。1964年に菅原洋一に提供した「知りたくないの」が大ヒットしたのを機に作詩家としてデビュー。数多くの名曲を作り、日本レコード大賞など多くの音楽賞を受賞。2000年に小説「長崎ぶらぶら節」が直木賞を受賞、小説家としてもデビューする。
陽子線治療を世に知らしめる
2012年に食道がんが見つかり、闘病生活を描いた「生きる力 心でがんに克つ」(2012年12月発行、講談社)で、陽子線治療を広く世に知らしめた。
当時、中西さんはテレビ朝日の「ワイド!スクランブル」のコメンテーターとして出演していた。2012年3月5日の放送で、自身が食道がん癌であることを公表、治療のため休業することを明らかにした。
医師から抗がん剤、放射線治療、手術という治療法の説明を受けたが、若い頃に発症した狭心症の影響で心臓が弱く、長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、インターネットを活用して陽子線療法の存在を見つける。
2012年2月から6月にかけての闘病の様子は「生きる力 心でがんに克つ」に詳しく書いている。闘病の結果、がんを克服し、同年10月に復帰、執筆活動、コメンテーターなどの仕事を再開した。
リンパ節に新たながん
2015年2月、リンパ節に新たながんが見つかる。がんは前回の陽子線治療で照射した付近にあり、再度陽子線治療を行えば、気管支に穴が開いてしまう可能性が高いことが判明した。同年3月、自身のラジオ番組「なかにし礼『明日への風』」(フジ・サンケイグループの文化放送)でがんが再発し、休養せざるをえなくなったことを明らかにした。
前回の成功体験を踏まえ、陽子線を心の拠りどころにしてたが、同じ場所に陽子線が当てられないことがわかる。前回と同様に、手術には耐えられないと絶望に打ちひしがれ、緩和ケアを選択しようと考えた。
だが、担当の3人の医師から入れ替わり立ち代り電話が相次ぐ。事態が切迫し、命に関わることを知らされる。医師たちが動画CT(コンピュータ断層撮影)を分析した結果、リンパ節にできたがんは気管支に密接しており、それが気管支の膜性壁を破ってしまう「穿破」(せんぱ)が起きてしまう、一刻を争うような切迫した状況だった。穿破が生じると、多臓器不全となり、生きられたとしても長くて4日だということが分かった。手術を決断せざるを得なかった。
手術でがんは取り除けなかった
心臓への負担を考慮して胸腔鏡手術を行うことになった。しかし、胸腔鏡を差し込む穴を胸部に開け、差し込んでも入らない。若い頃に肺門リンパ腺炎という病気になり、それが原因で癒着しているため胸腔鏡を差し込むことができなかった。
急遽、開胸手術に変更された。ところが、がんは想定以上に気管支に密着しているため、メスを入れるだけの余裕がないことが分かった。4時間以上に及んだ手術は、肝心のがんには何もできないまま終了した。
抗がん剤でがんを小さくしてから、再び陽子線で治療することになった。5日間24時間の抗がん剤投与を計4回、4カ月間にわたり受けた。抗がん剤の副作用は、3回目まで何とか持ちこたえることができたが、4回目はついに腰砕けとなり、何もかも駄目なような感じとなり、「負けたっていいや」という心境に追い込まれたという。
七転八倒しながらも、抗がん剤治療の結果を待った。血液検査とPET(陽電子放出断層撮影)-CT検査の両方を行った結果、がんは消えていた。PET-CTでも光らない。腫瘍マーカーの数値は1.3。正常値だった。抗がん剤治療と平行しながら、陽子線治療を再開した。陽子線治療は計12回で終了、医師たちから「今回のがんは、これで完全にOKです」との宣言が出た。
創作活動が極限脱出の力に
闘病生活中は、がん、手術、穿破、幻覚、抗がん剤治療の副作用などのことが頭から離れず、常にピストルを突きつけられたような極限状態が続いたという。
だが、ピストルを突きつけられた時に「書く」という作業を選んだ。書き始めたことによって、自分の中に生命力が醸成され始めた。その作品が傑作かどうか分からないが、今まで書いたこととのないものを生み出しつつある。極限状態に追い詰められたことによって発動した非常ボタンのようなものだったかもしれない、と闘病生活を描いた著書「闘う力 再発がんに克つ」(2016年2月発行、講談社)で綴っている。
「書く」ことを仕事にしてきたので、極限状態でも新たなものを書きたい、創作したい、という思いががんを克服するエネルギーとなったのは確かである。
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