身近な人の死は、突然理不尽に訪れます。回復できないと医者に告知されても、奇跡が起きることを願ってしまう家族。また事故・災害による死は、なすすべのない苦悩をもたらします。
東日本大震災・津波の被災現場に立った私は、立ちすくむしかない悲しみ、命のはかなさを覚えました。そして、はかない(無常)からこそ、いとおしいと感じました。家を流された女性は「大切な書類でも再発行できる。モノも買えば揃う。しかし命は、再発行も買うこともできないんだよ」と語りました。
米国では、死を受けとめて新たな道を切り拓くための「死への準備教育」が行われているそうですが、それは死を通して命について学ぶことに繋がります。心理カウンセラーのグロールマン氏は「子どもの死—あなたの未来を失うこと。配偶者の死—あなたの現在を失うこと。親の死—あなたの過去を失うこと。友人の死—あなたの一部を失うこと」と述べています。
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デス・スタディ」(若林一美著・日本看護協会出版会刊)は、米国ミネソタ大学の「死の教育と研究センター」研究員であった著者による死の受け止め方、その後の生き方についての考察です。
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夫・妻の死から立ち直るためのヒント集」(河合千恵子編・三省堂刊)は、東京都老人総合研究所員等による調査・研究データに基づく伴侶を喪った深い悲しみと心の危機を克服するための処方箋です。悲嘆のプロセスの第一段階は、茫然自失のショック状態。認めがたい現実をゆっくりと受け入れようとする自然の配慮です。第二段階は、喪失に気付き感情が揺れ動く時で、死者や周囲に怒りの矛先が向かうこともあります。第三段階は、激情の反動として疲労が頂点に達し冬眠のような引きこもり状態となって、ゆっくりとその死を意味づけていきます。第四段階は、現実を受け入れ回復に向かう時期。そして第五段階は、自分の人生を生きていこうとする再生の段階です。死別の体験者たちから紡ぎ出したアドバイスは心の救いになります。
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伴侶の死」(平岩弓枝編・文藝春秋刊)は、雑誌・文藝春秋の「伴侶の死についてのエッセイ」応募作から選ばれた40編。悲しみの底から再び歩み始めた人々のありようと、我々日本人がどのように伴侶の死を受け止めてきたのかが分かります。編者の作家・平岩氏は「夫婦とは添い遂げればこそのもの。伴侶が老いて病んだ時、自分に看取ってやれる力があってよかった。先にあの世に行ってしまったら、相手はどんなに寂しい思いをしただろうと思い至る。伴侶の死とは、即ち人間の生き方を考えさせるもの」と記しています。
最近、ステキな新聞投稿を読みました。妻の三回忌法要を終えた78歳の夫。遺骨を納めた山の寺は夫婦の憩いの場所だったが、今は自分の癒しの場となった。妻のもとに行くのもそんなに遠いことではないと亡き妻を偲ぶ。もう一葉、闘病7年で亡くなった夫は生前に大学病院に献体手続きを行い、知人の陶芸家に骨壷の制作を依頼していた。一周忌を過ぎて夫は美しい骨壷に納まって妻のもとに帰ってくる。76歳の妻は体調を整え新しい気持ちで迎えようと、清々しい決意を示しています。夫婦は二世を契るというのはこのような心のありようを指すのでしょうね。
赤ひげ書房の書棚には、市井の方々による身内の闘病記や介護録がたくさんあります。思い出を書くことは亡き人への追悼・鎮魂に加えて、癒しそして心の再生に繋がっていくことを実感します。
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