「がんと闘った科学者の記録」
ノーベル賞を確実視されていた物理学者
戸塚 洋二さん
プロフィール
戸塚洋二(とつか・ようじ)1942年静岡県生まれ。理学博士。72年東大大学院理学系研究科博士課程修了。88年東大宇宙線研究所教授。98年世界で初めて素粒子ニュートリノに質量があることを発見。仁科記念賞、パノフスキー賞、ベンジャミン・フランクリン・メダルなどを受賞。2004年文化勲章を受章。2008年7月10日死去、享年66歳。
知人に治療経過など知らせるためのブログ
ニュートリノ観測でノーベル賞を確実視されてた物理学者・戸塚さんは、大腸がんで余命わずかと告知されてから闘病記ブログ「The Fourth Three-Months」を開設、死の直前までの11ヵ月間に、自らの病を見つめ、死と信仰についての想いや自宅の庭の花々を愛で自由気ままに膨大なページを綴った。
特に、大腸がんの治療経過は自ら克明に分析し、がんのCT(コンピュータ断層撮影)写真をデジタル化して、その大きさを計測し、がん細胞の成長曲線を描いて予後を推定したり、そこに抗がん剤の服用期間を書き入れて、その効果を測り、腫瘍マーカーの数値や抗がん剤の副作用について、物理学者らしい詳細なデータを記録し、同じようながん患者にこの記録が役立つことを願った。サイエンティフィックなマインドを持つ患者の体験談(病歴、治療効果、抗がん剤の副作用など)を広く集めたデータベースを作り、治療に役立てて欲しいと具体的に提案している。
戸塚さんがブログを開設し、綴ったのは、離れて暮らしている子どもや戸塚さんの兄弟、がんに罹っていることを告げた、ごく親しい友人に病気の進行状況を知らせたい、というのが目的だった。いちいち個別にメールをやりとりする手間が省けからだ。ブログのアドレスは、ごく限られた人にだけ伝え、時間の経過とともに知らせる範囲を広げていったが、最後まで一般向けに公開したわけではないから、ブログを読んでいた人は、ごく少数にとどまっていた。
しかも、ブログには筆者の氏名が書かれていないから、戸塚さんのブログだと認識して読んでいた人は、戸塚さんからアドレスを知らされていた人たちだけだった。とはいえ、がんの病名や抗がん剤などをキーワードにしてネット検索すると、戸塚さんのブログに偶然アクセスし、筆者を戸塚さんと認識しないままに闘病ブログの熱心な読者となり、戸塚さんと交流する人もいた。
戸塚さんが亡くなった後、取材が縁で親交があったジャーナリストの立花隆さんがブログを編集し、単行本として文藝春秋から2009年5月に出版されたのが「がんと闘った科学者の記録」だ。
立花隆さんとの再会
立花さんは、自身が膀胱がんの手術をしたことを手記として「文藝春秋」(2008年4月号~7月号)で公表したが、最初の号を読んだ戸塚さんから、お見舞いのメールが送られてきた。そのメールには戸塚さんのブログのアドレスも添付されていた。
立花さんは、ジャーナリスト生活で取材した多数の人々の中でも、最も忘れがたい人だった戸塚さんからのメールに驚いた。がんに罹ったらしいという話を秘かに聞き及んで心配していたが、こういう形で戸塚さんの方から連絡があるとは思ってもいなかった。
立花さんは早速「TheFourth Three-Months」のページを開き、情報量の多さに圧倒されながらも、がん関連のページ、科学論、科学政策論、研究体制論、大学論、教育論などのページを次々に読み進み、戸塚さんにメールを返信した。
戸塚さんが立花さんにメールを送った頃の病状は、がんが脳に転移し、意識を失ったり、譫妄(せんもう)状態になるなど、相当容易ならざる状態にあったにもかかわらず、ブログには「ついに末期がんに突入しました」と淡々と綴っており、精神的なタフさ加減に立花さんも驚いたという。
立花さんは2008年6月13日に戸塚さんにインタビューし、その内容は、対談「がん宣言『余命十九ヵ月の記録』」として文藝春秋2008年8月号に掲載された(「がんと闘った科学者の記録」の巻末に収録)。親交のあった多くの人たちは、戸塚さんが重いがんに罹っていることを初めて知ったが、戸塚さんは文藝春秋2008年8月号発売日の7月10日に亡くなり、訃報が重なるというドラマチックな終幕となった。
強い酒が健康を蝕む
戸塚さんは、アルコール度数の高い強い酒をストレートでグイグイ飲んでしまう酒豪で知られ、酒で健康を害すのではと周囲の人たちが心配した。戸塚さんがこうしした飲み方を覚えたのは、東大の助手時代にドイツに留学した頃だった。身分不安定なまま留学し、ドイツで取り組んだ新しい電子・陽電子衝突型加速器の研究に手こずるなど、想像を絶するストレスだらけの生活の中で、ドイツ風の強い酒の飲み方が身についてしまった。
日本に帰ると直ぐに、建設が始まったばかりの「カミオカンデ」(ニュートリノを観測するために、岐阜県神岡鉱山地下1000mに存在した観測装置)の現場に投入され、以来約20年間に及ぶカミオカ生活が始まった。孤立した研究環境の中では、仕事が終った後に、皆で酒を飲むのが習慣となっており、強い酒をストレートで飲む戸塚さんの健康を蝕んだ。
術後に激務、酒量も増え再発・転移
戸塚さんが最初の大腸がんが見つかり、直腸、結腸の手術を受けたのは2000年11月のことだったが、かなり以前から腸に異常があり、日常的に下血が続いた時期があった。もっと早めに異常に気がつき、しかるべく手を打っていれば、事情が違ったのかもしれない。
戸塚さんは2000年11月に直腸、結腸を切除し、大腸がんの手術が成功、最初の4年は、がん患者としては何事もなく過ぎた。しかし、その4年の間に「スーパーカミオカンデ」(カミオカンデを大幅に高性能化したニュートリノ検出装置)で大規模な破損事故が起こり(2001年11月)、戸塚さんは復旧作業の陣頭指揮で夜も眠れないような日々が続く最大のストレスを抱えた。その間に、酒量がまた増えたようだ。
また、戸塚さんの恩師である小柴昌俊さんが自ら設計を指導・監督したカミオカンデで史上初めて自然に発生したニュートリノの観測成功により、2002年にノーベル物理学賞を受賞したという朗報も飛び込んできた。
その間にがんが進行し、2004年2月にがんが左肺に転移するという形で再発し、手術で対応した。その翌年の2005年9月には、右肺に転移するという形で再々発した。がんが再々発した場合、手術をしても良くなる見込みがないので、手術はできないため、医者は抗がん剤治療を直ぐに始めることを勧めたが、戸塚さんは仕事優先を選択して治療を後回しにした。この選択がいけなかったようで、治療の遅れががんの進行をひどいものにした。
2006年3月に仕事(高エネルギー加速器研究機構長)を辞め、4月から抗がん剤治療をようやく始めた。2008年1月に肝臓へ転移、2月に骨へ転移、3月に脳へ転移と、がんの転移がアッという間に進行し、手の施しようがない状態だった。立花さんとメールのやりとりが始まった頃だった。
科学者らしい治療法の選択
戸塚さんがブログで書いているように、大腸がん手術後に医師から「5年生存率80%」と言われて安心したのでしょう。退院後に手術以前と同じ研究生活に戻り、しかも、スーパーカミオカンデの事故が重なり、復旧の責任者として昼夜に分かたず超多忙な生活に戻ることになった。
大腸がんの発症は、多忙によるストレスの蓄積と、アルコール度数の高い強い酒の飲酒習慣が原因なのだから、生活習慣を根本的に変えない限り、がんが治ることはない。凡人の多くは、がん発症を契機に、それまでの生活習慣を見直し、ライフスタイルを180度転換して、がんの治癒を目指すが、戸塚さんには、こうした考え方が無かったようだ。
再発したがんは、抗がん剤で治ることはないことが知られてるが、にもかかわらず、戸塚さんは抗がん剤以外の治療法を模索しなかった。
科学的データに証明され、マニュアル化された治療法だけを信じ、延命を期待したが、がんの進行は立花さんも驚くほどの速さだった。戸塚さんは、最期まで科学者としての誇り、哲学に基づいた生き様を選択したのかもしれない。
関連書籍は赤ひげ書房サイトへ